アルゼンチン: 2009年12月アーカイブ
10ヶ月に及ぶアルゼンチンでの仕事を終え、帰りにロサンゼルスに寄りました。これはディズニー・ワールドで。ミラーグラスなんかかけていたらVIPと間違われたみたいです。これでアルゼンチンのシリーズはおしまいです。
パン屋さんに飾られたお祭りのきれいなお菓子。何かのフィエスタだったか忘れてしまいました・・・。
ブエノスアイレス・デジタル網の開局直前。緊張の中でもカメラを向けると、この笑顔。
ブエノスアイレス郊外のモンテ・チンゴロの原っぱに立つエンテルの電話局。電車を乗り継いで通ったものです。強風でアンテナが揺れて、通信できないトラブルが・・・。
アルマセンとは別のタンゴのショー。私はこちらの方が若々しくて気に入ったのですが、友人たちは、「アルマセンのほうが音楽性に優れている」とのたもうのでした。アルマセンのほうは年配の出演者が多かったように思います。
ブエノスアイレス市街。フロリダ通りの近くと記憶しています。左手の丸い建物は銀行です。
ヨーロッパ風の建物が点在する、石畳の優雅な、そして貧しく、誇り高い国。
アルゼンチンの花屋さん。こういう小さなスタンドをよく見かけました。アルゼンチンで日本人といえば、花屋さんかクリーニング屋さんでした。私たちが電子交換機を持っていったときに、「何故日本人にこれだけのものが作れたのだろう」と驚いていました。日本人の地位は当時、低かったようです。
パレルモ公園の池で。とにかく広い公園でした。仕事で忙しくてあまり遊んでいる時間はなかったのですが・・・。
アルゼンチンに住む日本人の間では、「サンマルチン」駅の次は「ヨンマルチン」というジョークがはやっていました。夜で光が足りずに、粒子が粗い写真だったのですが、デジタル補正で割りときれいな写真になりました。
仕事をしていた、電話局の門番のおじさん。門番というより取締役みたいですよね。帰国直前、お別れに撮った写真。
写真の現像に行ったカメラ屋のおじさん。当時はまだデジタルカメラはありませんでした。それにしても俳優にでもなれそうな風貌。端正な容姿の人が多かったです。
帰国が近づく中、猫を預かってくれる人を探して、あせっていたのですが、結局、借家のお隣の奥さん、息子さんが預かってくれることになりました。ほんとうに人のよい人たちでした。はじめてお隣に猫を連れて行ったときに、ちょこちょこと走って、飼っている犬のえさを食べだしました。犬が怒って、そばでほえていました。それを見て、みんなで大笑い。
最初、お隣に猫を預かってくれるようにお願いに行ったときには、私があまりに真剣な表情で訪ねたので、奥さんは何事かと思ったようです。
いまでも心残りなのは、スペイン語がよく話せずに、対応に出た奥さんが、御自分のことを、今はみっともない格好をしている、といったのに、「そんなことは無いです」というつもりで、「ノー」といってしまったこと。
許していただけるでしょうか?
お隣の息子さんとは、帰国後しばらく文通をしていました。
ブエノスアイレス郊外で、仲間と家を借りて住んでいたある朝、庭に障害を持った黒猫が捨てられていました。後ろ足が満足に動かない。やっと歩ける程度で、高いところへのジャンプなどもちろんできません。ほっておけず、家に入れて体を洗い、ご飯を上げて、飼うことに。
私によくなついて、家の中をどこでも不自由な足でついてきました。帰国が近づくにつれ、この猫をどうしようかと真剣に迷いました。
広大なパレルモ公園の多分、プラネタリウム。中へは入りませんでした。
番外編。トランジットのバンクーバーからリマへ。バンクーバーには数時間滞在して、市内を観光したのですが、リマは空港の中だけで、ブラニフのきれいな機体を眺めていたくらいで、その他の記憶はまったくありません。
ブエノスアイレスの電話局の仕事場で、運転手をしていたバルガスと彼のガールフレンド。バルガスという名前は多かったのですが、彼は、俺はちゃんと仕事をしているのに、日本人は机に向かってばかりいて仕事をしていない、とこぼしていました。
フロリダ通りのお土産やさん。帰国直前に大量にお土産を買いました。馬の置物とか、石で出来た卵とか、好きだったボルヘスの詩画集や、全作品集、分厚いブエノスアイレスの地図は、今でも私の宝物です。
7月9日(ヌエベ・デ・フリオ)通りに立つ、高さ67mの純白のオベリスク。ブエノスアイレスの設立400年を記念して立てられたそうです。
あまりに白すぎて、写真写りが悪いのが欠点です。(空に溶け込んでいますよね)
アルゼンチンの人々は、こういう巨大なモニュメントが好きなようですが、近くで見ると本当に圧倒されます。
大統領が執務する、ホワイトハウスならぬピンクハウス(La Casa Rosada)。「エビータ」の舞台ともなったところです。とても静かな佇まいでした。
ブエノスアイレスは南米のパリと言われるだけあって、ヨーロッパ風の大きな建物が目立ちます。ブエノスアイレス市内にて。何の建物だったかは失念しました。壮大さに圧倒されてシャッターを切りまくっていました。
ブエノスアイレスで、タンゴを聴かせるバー、「アルマセン」で。タンゴ初体験でしたが、生演奏を間近で見て興奮したことを覚えています。帰国してから、ピアソラのレコードをよく聴きました。
フロリダ通りのハンバーガー屋さんで。ポーズをとる男の子。後で、この写真をあげた記憶があります。
ブエノスアイレスのステーキ屋さん、ロス・トロンコスで、ビュッフェ・デ・ロモをひたすら食べる。料理のバラエティはあまりなかったです。ステーキを食べるか、中華や日本料理を食べるか、でした。
私がアルゼンチンに滞在していた期間に、フォークランド紛争が起こりました。イギリス領だったフォークランド諸島の領有権をアルゼンチンが主張して、戦争になったのです。戦争中、ブエノスアイレスの市内のいたるところに、反英のポスターが貼られました。イギリスがブエノスアイレスへ爆撃に来るという噂もあり、脱出の準備をしていたのですが、市内は一見平穏でした。
ブエノスアイレス。仕事場へ向かう途中で。ガラスに映った新旧の建物の対比がおもしろい。
最初に泊まったブエノスアイレスのエスメラルダホテルの窓から。アルゼンチンに着いてまもなくのころ。10ヶ月の中で一番高いホテルでした。ここしか空いていなかったので、仕方なく。
いやあ、心細かった。
ブエノスアイレス郊外のテニスコートで日本人同士でテニスをしていたら、日本人が珍しいのか、小さな女の子が近づいてきました。怖いんだけれど見ずにはいられない、といった表情。
ブエノスアイレスのモニュメント。これほど大規模でないにしても、この手の記念碑にはよくであった。
レティーロ駅近くの時計台。駅のすぐ向かいにあった。光線が入ってしまってちょっと残念。
ブエノスアイレスのレティーロ駅近くのお城のような建物。どんな人が住んでいるのか気になります。
もうだいぶ前のことですが、1982年に仕事でアルゼンチンに10ヶ月滞在しました。
その時に撮った写真です。これは以前、他の写真ブログに掲載したことがあるのですが、
そのブログを閉鎖することになり、抜粋してこちらに引っ越すことにしました。
解説には全般に手を入れています。
アルゼンチンは、英語読みではアージェンティーナ、(ミュージカル エビータでは「ドント クライ フォー ミー アージェンテーナ」っていう歌い出しですよね。)そしてスペイン語読みではアルヘンティーナとなります。
ミュージカル「エビータ」の舞台でもあり、南米のパリと言われる石畳の趣のある街並みでした。アルゼンチン出身の有名人に、作家のボルヘス(バベルの図書館が有名です)、ピアニストのマルタ・アルゲリッチ(発音はアルへリッチが正しいようです)、女優のオリビア・ハッセー、サッカーのマラドーナなどがいます。アルゼンチンの人々は、ヨーロッパ系の顔立ちの人と、インディオのような風貌の人が混じっていました。アメリカと違ってヨーロッパ系の人々も背丈は日本人とあまり変わらず、あまり威圧感はありませんでした。
アルゼンチンは第2次世界大戦の穀物輸出で、多くの外貨を稼いだのですが、あっというまに浪費してしまい、長年かなり貧しい状況に置かれています。1982年当時、電話局などの公共の建物でもトイレットペーパーの代わりに新聞紙を使っているような状況でした。
私の滞在の10ヶ月のうち、半分は、単身でホテル住まい。残りは、仲間と家を借りて住んでいました。当時は、非常に苦しくて、もう海外へは絶対行かない!と思っていたのですが、今思い返すと、とても懐かしいです。
多分、ブエノスアイレスで始めて、エスプレッソを、それもほぼ毎日飲みました。以前からコーヒーは好きでしたが、エスプレッソ好きが決定的になりました。これも懐かしいです。
今回の写真はブエノスアイレスの建物です。何の建物かは定かではないのですが。(そういう写真が多いです)
なお自費で作ったアルゼンチンの写真集があります。まだ少し余分がありますのでご興味のある方はコメントでお問い合わせください。このブログの写真は全て含まれています。

